仏教的にいえば、「性自認」は、幻影のようなものである

>>>低年齢における性同一性障害者は、成長の過程で心と身体の性別が一致していくことも多く<<
>>と言われると同時に、他方では「性自認は幼少で決定され、変わらない」とも言われる。一体、どちらなのか……。<<

性自認と(呼ばれる何か)は、(本人の)幼少(期)で(既に)決定され(ており)、変わらない」が、「低年齢における性同一性障害(の症状を示す)者は、成長の過程で心と身体の性別が一致していくことも多い」ということだにゃ。

理解できないかにゃ? ヒント! DSM-4の「性同一性障害」の診断基準には、「反対の性に対する強く持続的な同一感」(A strong and persistent cross-gender identification)とは、書かれていても、「性自認」(gender identity)という言葉は使われていないにゃ。

仏教哲学的に行ってしまうと、「性自認」というのは、単なる幻影にゃ。そういう実体はこの世には存在しないにゃ。だけどその「幻影」を「真実」として生きる者にとっては、幼少期からすでに決定されていて、変わらないかのように、強固なものであるかのように感じられるわけにゃ。

例えば、一万円の貨幣価値は、人間の経済活動が作り出した虚構にゃ。でも貨幣経済の中で生きる者にとっては、それが原因で、殺人事件が起きたり、自殺者が出たりするくらい、切実なものであることと似ているにゃ。

WメンタルクリニックのT先生、曰く、「語られなかった言葉を聞け、書かれていない文章を読め」だにゃ。

>このとき、優ちゃんが本当の気持ちで答えられる環境であって欲しいです

たしかに複雑な心境だにゃ。パスのこととか考えれば、できるだけ若いうちに、ホルモン療法や手術をさせてあげたいと思う反面、今の自分が、たとえ外見、変態の女装オヤジであったとしても、そういう自分を作ってきたのは、他ならぬ人生の様々な局面における、自分の自由な意志による選択の結果だにゃ。だからこそ、不幸も幸福も含めて、それがほかならぬ自分自身であると自信を持って言えるわけにゃ。
はたして周囲がベルトコンベアに載せるみたいにして、女にしちゃって、それで本人が自分は幸せだと自信を持って言えるかというと……。う〜む。